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セーラジャーナル

英語さんぽ道

ヒロシマ

 着いてみると、広島は緑の多い美しい街で、原爆のツメ跡なんてどこにもなかった。街は原爆のことも、戦争のことも忘れたがっているみたいだった。」と田口ランディさん。エッセイ『根をもつこと、翼をもつこと』に書かれていたことが、気になっていた。ヒロシマかー 行ったことないな。行かなくちゃいけない気がする・・・

ランディさんの言葉がいつまでも心のどこかに残り、その時の旅の最終地を広島に決めた。到着して、「あーわかる。確かに・・・」ランディさんが書いていたことが腑に落ち、不思議な感覚に見舞われた。整然とした街並の広島は他と変わらない都会、高いビルが立ち並ぶ大きな道路を歩いて私は平和記念公園へと向かった。

歩いて到着。すぐ側には、広島カープの本拠地、広島市民球場があった。そこから飛び交う声援、活気から野球の試合があったことがわかった。その轟々という声を後ろに、最初に見えてきたのは、原爆ドーム。写真などで見ていた原爆ドームを目の前にする。平成8年に世界遺産に登録されたという原爆ドームは、私の目にオブジェのように写った。何の感情も起こらない・・・。悲しい気持ちになること、涙がこぼれることを期待していたのだろうか・・・

広い広い平和記念公演を私はひたすら歩いた。毎年8/6原爆記念日に献花されお線香がたかれる「原爆死没者慰霊碑」、ここに立つと遠くに平和の灯が見える。他に「平和の鐘」、「原爆の子像」・・・1つ1つの前で立ち止まり、書かれているメッセージを読んで歩いた。そうこうしているうちに、夕方に。肝心な「広島平和記念館」入り口に着いたのが、午後4時頃。閉店まで1時間しかない。小走りで館内を回る。館内の薄暗い
コーナーに確か大きな地図があり、破壊された広島市街地のパノラマがあったところだったと思うが、それを目の前にしてアメリカ人らしき人が”I’m soryy. I’m sorry.”と悲痛な声が聞こえたことを今も忘れられない。アメリカ人は、歴史のなかでこの事実をどう学んでいるんだろう、いつか機会があったら聞いてみたいと思う。


ヒロシマから戻り、再び田口ランディさんの本を開く。

五十五年前の今日、広島上空、島病院の真上に原爆は投下された。その事実は知っている。でも広島の地に在りながら、私は身体でその事実を受け止めることができない。頭は必死で「凄いことが起こったんだぞ、もっとおののけ」と命令するのだけれど、実感がない。身体感覚が伴わないのだ。
『根をもつこと、翼をもつこと』より

数日前に歩いた広島の街、平和記念公園を思い出しながら「うんうん」とうなずく。ヒロシマの街を自分の中で消化しきれずにいる。

8月15日終戦記念日。68回目を迎えた今年、被爆者の平均年齢は78歳を超えたという。厚生労働省によると、参列を表明した遺族のうち戦没者の妻はわずか16人という。(読売新聞 2013.8.16)この先10年、20年後には直接の体験を語り聞かせてくれる人がいなくなる、ということになる。

戦争を知らない子ども達、私もその一人。戦争の悲惨さと平和を実感を持って次の世代に伝えていくことは、正直自信がない。せめてもと平和記念資料館で買った原爆入門・写真詩集『たった一発の原爆でヒロシマ20万人、ナガサキ10万人が死んだ』を教室の本棚に加えた。小学生の詩と共に、原爆投下直後の街の有様や傷を負う人々の目を覆いたくなるような写真がこれでもか、というくらい載っている。生々しい。意外に教室の子ども達は、この本を手に取ってじっと見入っているのは救いかもしれない。

広島は、ヒロシマでありHiroshima。世界にはなお1万7000発以上の核兵器が残っているとされている。日本は被爆国であり、非核保有国である。世界に向かっているヒロシマ、日本の役割を重く受け止め若者達と語り合っていきたい。





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