この木を植えたのはいつだっただろう?すっかり庭の定位置の見慣れた風景の中に、ハナミズキの木はある。我が町の桜便りが聞かれなくなった頃に、可憐な薄紅色の花を咲かせる我が家のハナミズキ。毎年、咲き始めると次々花を咲かせていたのが、今年は3輪の花を咲かせただけ・・・
そのうちに咲くだろう、と木を眺めながら待っていても咲かず仕舞い。がっかりしながら思い起こすと、原因は去年の私の剪定にあるよう。去年秋、木の剪定が面白くなり、チョキンチョキンと剪定ばさみを動かしながら、花芽も切ってしまっていたようだ。あまり考えもなしに、木の気持ちも考えないで。ハナミズキよ、ごめんなさい。
『記念樹』などがあるように、木の持ち主にはその木の物語があるのではないかと思う。我が家の木々にもそれぞれにエピソードがあり、夏椿(別名“沙羅の木“)も、もみじも、聞かれたら話したいストーリーがある。このハナミズキの木は、いつもは好みが違う母と私が「ここに何植える?ハナミズキにしよう!」と意見が一致し、一緒に買いに行木、母が植えたもの。白い花の苗木を選んで買ってきたつもりが、咲いたら薄紅色だった。「あ、咲いたね!」と1輪目の花が咲いて2人で喜んだ時のことは今でも覚えている。私が立って手を伸ばしたくらいの背丈だったハナミズキは、今では背伸びしてもてっぺんに届かないくらい幹、枝葉を空に向かって伸ばし、広げている。
いつ植えたか、記憶を辿るなかでこの『英語さんぽ道』にハナミズキを購入して植えた時のことを書いたことを思い出した。読み返してみると、それが書かれたのが2015年5月。植えた年に書いたので、このハナミズキは11年目。

んー何だかもっさりしている・・・
去年は何も知らずに花芽を切ってしまった私の素人な剪定、今年はいつもお願いしている庭師さんにその旨を伝えて、来年花が咲けるように剪定して頂こう。
庭を眺め、庭で過ごす時間が益々好きになった私は、今年小さな木の苗をいくつか植えた。アカシアとクロモジとアーモンドの木を。

どれも、しゃがんで目線が合うほどの小さな木たち。あるペイザジスト(景観や風景のデザイナー)の方の「小さく植えて大きく育てる」という考えに出会ってから、私の樹々に対しての見方、対し方が変わった。そこにあるどの木にも「小さい頃」があり、目の前の姿になるまでの年月があるということ、「木の一生」のようなことを考えるようになった。
おしまいに、最近手にして買って帰らずにはいられなかった1冊の本のあとがきの一部を引用したいと思う。
樹を見ることは、樹を見上げることだった。
樹を見上げることは、樹の下に立ちどまることだった。
樹の下に立ちどまることは、時間のなかに立ちどまることだった。
時間のなかに立ちどまることは、黙ることだった。
黙ることは、聴くことだった。
聴くとは、樹のことばを聴くことだった。
樹のことばを聴くことが、樹を見ることだった。
空の下で、樹のことばを、聴くように見、見るように聴く。
「空と樹と」著:長田弘. 画:日高理恵子